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一視同仁

5年前の今日の投稿をブラッシュアップして再録します。

昭和10年(1935年)4月21日6時1分、当時日本領であった台湾をマグニチュード7.1の大地震が襲いました。

新竹州と台中州を中心に死者3,276人、負傷者12,053人という甚大な被害が生じましたが、この死者数は今に至るまで台湾震災史上の最多を記録しています。

翌22日の午後2時より児玉秀雄拓務大臣から震災の模様について奏上がなされた際に、昭和天皇は『救護ニ努メ、特ニ内地人ヨリモ台湾人ニ重キヲ置ク位ニ致セ』、『禍ヲ転ジテ福トナスベク、内台人ノ融和ニ之ヲ活用セヨ』と命じられました(『本庄日記』262頁)。

あわせて昭和天皇は、侍従御差遣と御救恤金下賜を指示され、23日には入江相政侍従を謁見、翌24日に出立した入江は、海路で27日には台湾着、台湾総督府において中川健蔵台湾総督以下に聖旨を伝達させています(『入江相政日記 第一巻』15頁)。

また、天皇皇后両陛下からの御救恤金10万円(現在の貨幣価値で約3億円)を伝達した後、台湾各地の震災状況を視察した入江は、5月14日に昭和天皇へ復命をしました(『昭和天皇実録 第六』712‐713頁)。

これは驚きです。

『特二内地人ヨリモ台湾人ニ重キヲ置ク位ニ致セ』とは、世界人類史上、大災害時において、植民地住民の救済を最優先にさせた君主の事例は、恐らく空前絶後なのではないでしょうか。

しかも、あの生き馬の目を抜く激烈な帝国主義の最盛期においてです。

まさにそこに差別の意識はなく、一視同仁あるのみです。

こうしたことは、同時代の資料(『高松宮日記』、『西園寺公と政局』、『木戸幸一日記』など)にも余り記録が残っておらず、後に数々の歴史家が昭和天皇の伝記を書きました(児島譲『天皇』、レナード・モズレー『天皇ヒロヒト』、保阪正康『昭和天皇』、河原敏明『天皇裕仁の昭和史』、エドワード・ベア『裕仁天皇』、山本七平『昭和天皇全記録』、升味準之輔『昭和天皇とその時代』、松本健一『畏るべき昭和天皇』など)が、そこでも触れられていません。

そして迎えたのは、平成23年(2011年)3月11日。

東日本大震災や原発事故を通じて、天皇陛下が常に国民一人びとりに寄り添われ、いかに国民の幸せを願い、祈りを捧げていただいているかをこれほど感じさせられた年はありませんでした。

天皇陛下は、対象外であったにも関わらず計画停電に合わせて皇居内の電気を自らお消しになり、ご高齢をおして何度も被災地をご訪問になり、被災者一人びとりに膝をつけてお励ましになりました。

激励に行って罵声を浴びせられた総理大臣とは比較することもできません。

関東の水害でも熊本の地震でも、被災地を見舞われ、苦難を国民とともにされるとともに、その復興をお祈りされていました。

しかし、天皇陛下がそのように一人びとりに心を添わせ、膝をつけることは、今のように日本が豊かだからできたことではありません。

新竹・台中地震の事例にみられるように、貧乏国家であった過去から一視同仁が普通に行われてきた日本という国だからこそできたことであり、私はこの国をとても素晴らしい国だと思います。

有識者会議なるものが、意見がまとまらないからとりあえず一代限りでいいや的な皇室制度改革をやろうとしています。

83歳のご高齢を迎えなおかつ責任感を持って祈り続けさせられる天皇陛下の本質を見ることができておらず、本当に識見が有るのかと疑ってさえしまいます。

戦前は天長節と呼ばれた天皇誕生日に『本庄日記』や『入江相政日記』、『昭和天皇実録』を読み返していて認識を新たにしました。

私たちは、たとえこの国に数々の問題があったとしても、愚痴を言ったり、誰かを悪者にしたりするのではなく、手を動かし、汗をかいて、一人びとりが努力を重ねることで課題を解決し、さりげなく支え合いのできる素晴らしいこの国や国民を大切にして生きていかなければならないのだということに。

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