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文化の日

嘉永5年9月22日に誕辰された祐宮は、7年後の万延元年に親王宣下の儀があり、御名を睦仁と賜りました。

さらに6年後の慶応2年12月25日、孝明帝が36歳の若さで突如崩御されると、翌慶応3年1月9日に数え16歳で祚践されたのが第122代明治帝でした。

親幕であられた孝明帝崩御により急速に台頭した王政復古派公卿の画策により、大政奉還の上表と倒幕の密勅が降下され、対幕政策は大転換されました。

王政復古により、天子様は庶民の信仰心厚い天照皇大神様のご子孫様であると規定され、祭政一致の新政が始まりますが、このことが後にわが国が立憲民主主義と資本主義を国是とするのに効果を発揮しました。

戊辰の役、西南の役を経て国内統一がなされる一方、明治帝は地方巡幸により国民を撫育され、国民皆兵による近代国軍を創設、明治22年2月11日に大日本帝国憲法を発布され、統治権の総覧者となられました。

政府諸機関百僚有司陸海軍帝国議会の輔弼と輔翼、協賛と責任により憲法体制は運用され、殖産興業、富国強兵が推し進められます。

帝国主義華やかなりし時代に、列強による植民地化を防ぎ東洋の安定を求め、眠れる獅子と相見えた日清戦争、次いで第0次世界大戦とも称される総力戦であった日露戦争にそれぞれ辛勝し、ようやくわが国の独立を保全することができました。

日常生活は極めて質素倹約で、日露戦争開戦直前に詠まれた『よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ』という御製からも、平和を意味する睦仁という御名そのものの平和愛好の大御心を拝察することができます。

明治帝は、明治45年7月10日の東京帝国大学卒業式御臨幸の際に疲労が観察され、18日以降御容体が悪化、遂に御病気癒えず、30日午前0時43分、御年61歳で崩御されました。

本日は太陽暦に換算して164回目の明治帝のご誕辰の日、すなわち明治の御代には明治6年太政官布告第344号『年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム』により天長節とされ、大正帝践祚に伴う大正元年勅令第19号『休日ニ関スル件』により一旦廃止、昭和帝践祚に伴う昭和2年勅令第25号『休日ニ関スル件』全部改正により再び明治節として休日とされていた日です。

ちなみに大正の御代には、先帝祭として7月30日が明治天皇祭とされていました。

先の大戦に敗北したあと、昭和23年法律第178号『国民の祝日に関する法律』が施行され、祭日である明治節は廃止されましたが、11月3日は『自由と平和を愛し、文化をすすめる』ことを趣旨とする文化の日として、引き続き祝日と定められました。

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