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外国籍市民政策の現場から2011(1)

【湖南工業団地の造成】 湖南市、いや、合併前ですから甲西町は、その名のとおり甲賀郡の西部地域に当たります。

昭和の大合併で『甲西地区』の1町3村が合併勧告され、昭和30(1955)年に2村が新設合併して甲西町となり、3年後に1村が編入合併となりました。

もう1町は東海道五十三次51番目の宿場・石部町で、この甲西町と石部町が平成16(1994)年に合併して『湖南市』が誕生したのですが、話はその前に遡ります。

甲西町は純農村地帯でしたが、昭和30年代半ばから、TOTOの工場が進出したのを皮切りに、昭和30年代後半から40年代前半にかけて、わが国で最大級の内陸工業団地『湖南工業団地』を造成、第二次産業人口が一気に増え、工業に特化したまちとなりました。

三菱自動車、久保田鉄工、東洋ガラス、大塚食品など全国的な企業から、大阪を抜け出して広い敷地を得た中小工場まで60数社が立地しました。

丘を削って整備された工業団地と川をはさんで反対側の丘陵には、大規模な住宅団地が造成されました。

各企業は社宅を建てるとともに、宅地の分譲も行われ、職住近接の意欲的な工業団地となったのです。

企業では住宅政策として、何年かで社宅を出て地域に住宅を構え、地元に根を張るように社員に求めました。

甲西町は人口が3倍に増え、学校も新設また新設。

旧3村にそれぞれあった小学校が、昭和50年代には7校にまで増えていました。

【出入国管理法の改正】 甲西町に隣接する竜王町は、名神高速竜王インターを擁しており、湖南工業団地の工場は竜王インターを利用していました。

その竜王町は、大阪・池田に本社を置くダイハツの大工場を誘致しました。

ダイハツは湖南工業団地から多くの部品調達をするようになりました。

平成に入り、バブルの絶頂期、平成2(1990)年に出入国管理及び難民認定法が改正され、日系人の入国規制が緩和されると、南米系の労働者が流入しはじめます。

甲西町と石部町を合わせた湖南市としてのブラジル人登録者数の統計では、平成元年には0だったものが、平成2(1990)年には205人に、平成4(1992)年には510人に、平成11(1999)年には1,029人に、合併時の平成16(2004)年には1,644人に増加していきました。

この頃から、町内には外国人の姿が目につきはじめ、平成13年頃には初めてブラジル料理店がつくられるまでになりました。

【南米系外国籍市民の増加】 統計上はブラジル人が最も多いのですが、ペルー人も増えていました。

ブラジルはポルトガル語を、ペルーはスペイン語を母語とします。

平成15(2003)年には一日ペルー大使館が開設され、大使が来られたこともありました。

外国人人口が増えるとともに、日本人市民との生活上のトラブルも増えてきます。

ゴミ出しのルールを守らない、夜中まで外で騒ぎ立てる、税や国民健康保険料などを滞納する。

それに大きな問題とされたのは、外国籍児童の学習問題でした。

合併で湖南市となった頃、市内の朝の風景は、列をなしたマイクロバスが市内各所を巡回し、道路際に並んで待っているたくさんの外国人労働者を回収していくようすでした。

彼ら、彼女らは、主に社員の定住政策で空になった湖南工業団地の社宅をまるごと借り上げた人材派遣会社の寮に住んでいました。

それは、主に水戸小学校の管内にありました。

そのほか、農家の資産運用として建てられたアパート類にもたくさんの外国人が住むようになりました。

【外国籍市民の特徴】 当時の湖南市における外国籍市民の特徴は、南米系、とりわけブラジル系市民が外国籍市民全体の6割を占めたこと、そうした南米系市民は、市内の湖南工業団地ではなく、市外の工場に働きに行っていたことでした。

つまり、稼ぎは他市に落ちて、生活を支える費用は本市が持つというバカな状況になっていたのです。

それを端的に表現したのが、隣接の竜王町教育長の次の発言です。

『うちには外国人の子どもはひとりもおりません』。

ダイハツはたくさんの外国人労働者を雇い、後に労働運動にまで発展したくらいですが、土地利用上、竜王町では住宅を新設できないために、周辺自治体、とりわけ湖南市に外国人労働者の住居を求め、結果として行政サービスは湖南市が提供することになりました。

竜王町の教育長発言は湖南市の神経を逆なでしました。

(つづく)

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